First Creation 2007/02/22
Last Update 2007/10/30
Bloody Mary > Column > 2007/02/22 - Tuesday

異端思想

人間の思考は、他者からは観測不能という点で、量子力学における粒子のようだ。

※ なお、強調された言葉は全て創作 ( テキトー ) です。

異端

異端とされる理由

人間は何故こうも異端を排除したがるのか。少数民族への迫害、人種差別、オタクや同性愛への排斥主義等、その手の話題には事欠かない。微妙に少数派への迫害なんだか、禁忌への嫌悪感なんだか分からないケースはあるにせよ、今回はその思想の根底にあるものについて、想像の翼を広げてみたい。

異端とはなんだろうか。それは正統から外れたものだ。特定の思想に反することだ。こんな例を想像しよう。ある地域の住人は、特定の神を信じている。そこへ、別の神を信じる男が現れた。異端者だ。彼は単に道に迷い、その地にたどり着いた。親切な住民は、彼に食事と宿を提供した。しかしこう考えるものがいた。「あの男は宣教師だ。この世界に住み着き、布教を行おうとしているに違いない。信仰心の厚い住民は鼻にもかけないだろう。しかし、中には宣教師の人の良さに騙され、別の神を祭るようになるお調子者が現れるかもしれない。この男を受け入れることで、この世界は変わって行くかもしれない」と。

この考えは一見すると権力者のもののように思えるが、そうとは限らない。頑迷で迷信深い信者から発せられる可能性もある。この考えは、自らの属するものと異なるものをどう扱うか、といった、その人物が属する集団の、行動様式ではないだろうか。今回のケースのように直接的な脅威になり得なくても、一昔前なら非生産的な同性愛などが異端として扱われることが多かった。宗教家や権力者、文明、しきたり等にとって都合の悪いものが異端とされ、広まっていくわけだ。こういった考えを思想的異端視とする。

次に、原始人が神鳴りや火山の噴火を畏れたような原初的な恐怖が挙げられる。未知のものへの畏れが、排斥に作用するケースが挙げられる。これを未知への異端視とする。

人間が脅威を感じたときに取りうるの行動パターンがもうひとつある。軍人、ヤクザ、警察など、力あるものを異端とみなすことだ。これを力への異端視とする。

さらに、直接的な危険を異端とみなすケースがある。例えば、命に関わる病気があったとしよう。この病気にかかると、外見が変化してしまう。そういった特徴を備えた人は、例え発症していなくても、排斥されるケースがある。誤解かどうかに関わらず、これを避難的異端視とする。

他にもあるとは思うが、もう無理だ。ここ数年で頭が固くなった。もう思いつかない。最近固有名詞を思い出すのも難しくなってるんだよなぁ。

「老化現象の第一歩は、固有名詞を思い出せないことっていいますよ。ヤン提督」

提督って誰だ。私の頭の中はあまりにも自由すぎて、なかなか考えがまとまらないところがチャームポイントだ。だから支離滅裂って言うな。

個人的な事情は事象の地平線に放り込んでおいて、こうしてみると、異端を排斥しようとする根底には恐怖がつきまとう。ではこれらはどのようにすれば克服できるのか。

最初に未知への異端視について考えてみよう。未知。それは、知られていないということ。知られていないことなら知れば良い。その気があるなら。情報封鎖をしている国ではあるまいし、この情報化社会において、無知によって引き起こされる排斥は、自分の知識のなさを露呈しているようでいかにも情けない。彼らに対する処方箋は知識だ。それも自発的に学ぶことが肝心だ。

では、思想的異端視はどうだろう。これは思考が硬直していることを表している。本ページの最後の方で記述しているが、思想的異端視の中には自らの文化程度の低さを表しているようなケースもあり、かなり情けない。感情が理性を凌駕することは良くあるが、いい加減異文化には慣れろという気がしないでもない。処方箋は、知恵だ。少しは自分の頭で考えることだ。

上記では 4 つの異端を挙げているが、この中でやむをえないものといったら、力への異端視と、避難的異端視のみである。特に避難的異端視においては、 1 回の接触で ( ことによったら遠くに存在しているだけでも ) 命にかかわる可能性があるからだ。ただし、これも相手の理解と現状把握とで、排斥は最小限に抑えられると思いたい。

結局は相手を理解することで何とかなるケースが多くはないだろうか? 「相手の立場になって考える」「自分が嫌なことは相手にしない」

ならば異端を排斥する人々にこう言いたい。人間は多様性を誇る生き物である。だから貴方がどう考え、どう行動するのかは当人の自由である。人間は自分の行動を自分で決めることが出来るのだ。社会のためになる行動も、悪となす行為も、無関心な生活も。本能や感情に従って異端を排斥するのは悪いこととは言えない。ただし、それらの行動には必ずリスクがつきまとう。そのリスクは、いつか相手の側から下されることになるだろう。その意味において、

無知とは罪なり。報復は倍返し。

大半の日本人には無関係な信仰心

1998 年に行われたアンケートによれば、いまどきの日本人は、無神論が大半を占めている。 60 代は神を信じる人が多く、 50 代は信じる/信じないが同数、 20 代は信じない人が圧倒する。

かく言う私は「今のところ信じることができないが、見たり感じたりしたら信じる」である。残念なことに、今までの人生でその兆候はない。年老いて、弱気から宗教に転ずることはあり得そうだ。アンケート結果で、高齢者に神を信じる人が多いのも、そういう理由だろうか。いや、そう考えては失礼か。私の祖母あたりも、信心深かった記憶がある。それに、死ぬのが怖いからといって来世を信じたくなるようでは、単なる逃避である。そこに信仰はない。ある種の人間にとっては心の平安が得られるだろうが、残念ながら私はそこで思考停止してしまえるほど自分に優しくなれない。それにしても 2006/09/15 に死刑が確定したひげもじゃのおっさんなんて、よくアレを信仰しようという気になれるものだ。その一点を以ってオレ的奇跡認定をしてあげたい。信者の方がよっぽど凄い。

なお、こんな人間であっても、実はどこかの宗派に属している。らしい。私自身は知らないが、家族がどこかの檀家に入っていれば強制的にそうなる。アリガタイことである。何十年か何百年後かに家をついだら、墓は実家に移して祭っておけばいいだろう的な考えをしている人間ではあるが・・・しかも祭るって、普通の人を勝手に神にしちゃっていいのか?

なお、蛇足ではあるが、月明かりの夜に、寺や神社に行って見ると面白い。寺は陰気で恐ろしく、神社は静謐で怖ろしい。心霊は信じないにもかかわらず、そう思うところに日本人独特の感性がある。こうした感性は、日本が古今東西の神々を取り込んで八百万の神々としてきたことと無関係ではないと感じる。

どこかの唯一神は、私の中では 800 万分の 1 の存在に過ぎない ( 信じていないにしても )。これは日本人の中ではさほど珍しくない考え方だ。何しろ、芥川龍之介がそう言っているくらいだ。唯一神を信仰する人々にとっては、神格を貶められたような気がするかもしれない。悪行を重ねた人物ですら、祭って善神に奉ってしまうような風土であるゆえに、真面目な宗教観を持つ人々には、不真面目だと見えてしまうのだろう。そうは自覚しつつ、私にとって他の国の神とは、どんなに持ち上げたとしても、どこかの国の大統領と同じ程度の扱いにしかならない。

しかし、私の価値観を他の人に押し付けるつもりはさらさらない。自分の考えが認められないからといって、もしくは、相手の考えを認めないからといって、平穏に暮らしている善良な市民を暴力によって威圧するのは、頭がおかしいとしか言いようがない。

このようなかくもグロテスクで浅ましい思考がどういう結果に繋がるか。ナチス・ドイツがユダヤ人に何をしたか。アメリカ大陸における先住民族 ( インディアンと言えば、間違ってはいるが分かりやすいか? ) が白人に何をされたか。歴史を見ればその醜さが浮き彫りになる。また、日本でも大日本帝国のころに、他国に日本語を強制したり、思い上がった主義主張をして憎まれた。

何 % かの人間が、そういう考えを持っていてもおかしくない。多様性の一言で片付けられる。しかし同じ考えを持つ人間が 100% に近い割合で存在することは異常である。誰かが無理に同一の思考に染め上げようとしない限り、こんなことは起こらない。これが法則などであったら、ガッチリ枠組みが決まっていた方が良いだろうし、そうでなくては科学者が発狂するだろうが、全ての思考が一定の方向を向いている状態は不自然だ。不自然なのに、当人たちは当然のように思っているところが救われない。

そんな人々には次の言葉を贈ろう。決して実行できない故に、その価値は計り知れないはずだ。

異端なるものに敬意を払うべし

堕ちゆく国

敬意を払えとか言った舌の根も乾かぬうちになんだが、私は、「日本人と犬、立ち入り禁止」とか恥知らずな看板を立てたり、頭がおかしいとしか思えない報道を敷くが嫌いである。こういった例を極端とお思いだろうか? いやいや、そうではない。サッカーで試合が組まれるたびに、あの国の痴態が報道されているではないか。

あの国が日本に関係ないところで恥をさらしているだけなら、何もいきり立つ必要はない。生ぬるい目で見守っていただろう。関係のない第三者がしゃしゃり出るべきではないと思うからだ。しかし事はわが国、わが身に降りかかっている。関係ないではすまされない。日本人全てが当事者である。「それでも私は関係ない」「韓国は好きよ。料理が美味しいもの」と言う人もいるだろう。彼らの寛大さには敬服する。だがあえて私は書こう。あの国民の行動には反吐が出ると。

正直な話、私は大陸の文化に若干の尊敬と憧れを抱いていた。主にフランス料理に比肩しうる技法と広大な領土を背景とした歴史に。しかし韓国はその偉大なる源流から、異なる支流へ入ってしまった。日本が、大日本帝国などという低レベルな思想を選んだように ( 選ばざるを得ない背景があったのかもしれないが ) 、韓国もまた醜悪な国にならんとしている。いや、彼らの行動を見る限り、すでに手遅れだ。

日本は経済協力支援の方法を間違ったのかもしれない。親から何でも買い与えられた子供はどう成長するだろう。彼らは今、自我が尊大しきって細胞レベルで崩壊し、腐臭を放っている。周囲の鼻つまみものとなっていることが分からない。自国の識者の戒めの言葉にすら耳を貸そうとしない。自分にとって心地よい言葉しか聞こえないのだろう。躾のなっていない子供のように、他者を貶めることでしか自分を確立できないでいる。彼らを叱ってくれる大人はいない。自分で気付くしかないのだ。

国家レベルで膨大な資金を投入してきた背景があるから、いまさら国交を断絶することは論外であることは、政治に疎い私でも推測できる。そしてそれ以上に分かっているのは、個人レベルでお近づきになるのはさらに論外であるということだ。そんな彼らには次の言葉を贈りたい。

ずっとそのままの貴方たちでいてください。どこまでやるか見物です。

これほど素晴らしい反面教師がいるのだ。日本人は外国に行って恥をさらしている場合ではない。そんなのをやるにしても日本の中だけで完結して、諸外国には礼儀正しい日本人を印象付けることを切に願うものである。私も自重せねばならない。

ああ、こんな記事を書いていると、山ほど不幸のメールが来そうな気がする。「なら書かねばいいではないか」と言われるかもしれない。「何も好んで騒動に首を突っ込むことはない」と。だが、私がしっぺ返しを基本原則としている以上、やむをえないことなのだ。

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